最近、‘平家物語’の現代語版が出版されまして、読んでいます。現代語といってもやはり内容は難しく、気付くとうつらうつらしています。読み終えるまでには相当時間がかかりそうです。
さて、この教室に入社してから12年以上が経ち、今では先輩より後輩の数のほうが多くなってしまいました。7年間やった掃除も卒業し、受付の仕事もそれ以外の雑務も無く、この数年は自分の仕事だけに集中できる立場にあります。しかし、後輩が増えることで、いろいろ考えなければならないことも増えました。後輩を育てるという立場になるわけで、そういう意味では、新入りの頃のほうが楽だったかもしれません。
例えば仕事中、フロアーにゴミが落ちていたり、鏡が汚れていたりした場合、手っ取り早い方法は近くにいる後輩に、「ゴミ拾って」、「鏡拭いて」と言えば、みんな迅速に対処してくれるでしょう。でも僕は、よっぽど手がふさがっている時以外は、後輩に頼まず自分でやります。
口で言ってやらせるよりも、まずは自分が実践して、それを見た人間が、「ゴミがあったら拾う、鏡が汚れていたら拭く」という当たり前のことに気付いてくれるほうが、数倍生産的だと思います。
育てるということは、その人に自主的な行動を起こさせることであり、人に言われて何かするというレベルでは育っているとは言えません。
僕は教室でトイレに入ったとき、ザーッと見渡して、汚れていたり、ゴミ箱に入るべきゴミが散乱していたりすると、ちゃちゃっと掃除をしています。もちろん扉を閉めた状態でやっているので、誰かが見ているわけではありませんが、「次の人が気持ちよく使えるようにキレイにしておく」というのは、教室に勤める人間には当然の責務ですし、これもまた自分がそれを実践することで間接的にでも、後輩に伝わっていくものと信じています。
自分のことを棚に上げて、「ああしろ、こうしろ」という人間が世の中にはたくさんいますが、こういう人間の言葉には説得力がありません。
人には、「意外」と言われますが、僕はタバコを吸いません。理由を聞かれたときは、「臭いが付くのが嫌だから」と答えていますが、実は一番の理由は、自分にとってとても大切な人なんかに、「体に悪いからタバコは止めたほうがいいよ」と言えるためです。とくに未成年者の喫煙を、体に悪いからという理由で注意した場合、自分が喫煙していたら、「自分だって吸ってんじゃん」と言われるのが落ちです。
誰かに何かを制約させるには、自分自身を制約しなければ、説得力がありません。僕が仕事中、携帯電話をかばんから出さないのもそこに理由があります。近くにあれば使いたくなりますからね。
日本は世界の国々の中でも、年功序列などによる上下関係の厳しい国です。中学生にもなれば部活での先輩後輩の関係が生まれ、その関係はずっと続きます。それは社会に出てからも同じ事で、自分が属するいろいろなコミュニティーにおいてそれぞれの上下関係が存在します。ではその上下の関係とは何かと考えれば、「上の者が下の者を導き育てる」関係だと僕は思います。決して「上の者が傍若無人に振舞う」関係であってはいけません。
もちろん人は皆平等ですが、複数の人間で形成されるいかなる社会の中でも、年齢、経験、知識、立場の違いにより‘上に立つ人間’の存在は当然であり、また必然です。誰もが何らかの形で‘上に立つ’時があると思います。では、‘上に立つ’とはどういうことかと言えば、それは、権力を得ることではなく、‘責任を負う’ことです。‘子は親を見て育つ’と言われるように、上に立つ者は常に人の眼にさらされているという緊張感を持っていなければ、誰かを育てることはできません。
僕もまだまだ出来ていない人間ですから、面倒くさいことがあれば、「俺がやる必要ないか」と思うこともあります。すると、「お前は何様だ?いつからそんなに偉くなった?」という心の声が聞こえてきます。その声を無視すると、後で必ず後悔するので、なるべく逆らわないようにしています。
最後に、皆さんにも馴染みの平家物語の冒頭を紹介します。中学校の国語の授業で習った時から、この冒頭部分の綺麗な言葉回しと、静かなる強い戒めの意がとても好きでした。ぜひ声に出して読んでください。
‘祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。’おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。