よっちゃんのぶっちゃけた話
File 31
“教えること、学ぶこと”
2005/1/22
新しい年を迎えたわけですが、年末の世界的大災害を思えば、今は新年を祝うとい
うより、失われた多くの命から僕たちが学べることを考える時だと思います。
さて、毎度のことながら前回から時間が空いてしまいました。それでも、つたない
僕の話ですが、時間を見つけて書いていこうと思いますので、今年もよろしくお願
いします。本来なら前回予告した身体意識について話すつもりだったのですが、
今年最初でありますので、それは次回に回して年始らしいことを話します。
この三月で北條ダンススクールに入社して十年になります。この間ダンス教師とし
て、またダンサーとして経験を積んできたわけですが、それは言い換えるなら
教える側と学ぶ側の両方の立場で過ごしてきた十年と言えます。毎日当たり前の
ようにしてきたこの'教える'ことと、'学ぶ'ことですが、改めてその意味や方法
について皆さんと一緒に考えてみたいというのが今回のテーマです。
以前にも少し触れたことがありますが、ダンスの教師資格を取る際には、ダンスそ
のものに対する知識や技術は求められるのですが、それを他者に教えるという行為、
指導法についてはあまり重要視されていない観があります。例えば学校の教員に
なるには教育実習のように指導することに対する実技練習がありますし、スポーツ
クラブで見かけたエアロビのインストラクター養成のクラスでは、ベテランのインス
トラクター数人を生徒に見立てて実際にクラスを仕切る練習をしていました。しかし
僕も含めて、ボールルームダンスの教師の多くは上の人を見て学ぶという以外は、
'教える'ということを教わったり、練習した経験は少ないと思います。教師になり
たての頃の自分を思い返しても、それは恥ずかしいものです。知識も技術もありま
せんでしたから教える内容も乏しく、自分が学んでまだ理解しきっていないことを
そのまま生徒さんに教えるといったこともありました。そういう意味では、その頃か
ら僕にレッスンを受けてくださった生徒さんには本当に感謝していますし、こうした
方々のおかげで自分のほうが成長させて頂いたと感じています。ただ幸いだったことに、
僕は教えることに対していつも興味を持つことができました。ダンサーとしていろい
ろな事を学ぶと同時にそれを学ぶ側の人にどう伝えたらいいかということを常に
考えてきました。そして最近ようやく、'教える'ことの意味やその方法に関して自
分なりの考え、スタイルというものが形になりつつある気がしています。あくまでも僕
の自論ですし、それはまた同時に教師としての僕の武器でもありますから、公にする
べきではないのかも知れませんが、このコーナーを読んでいる人は何らかぼくと
関係がある方がほとんどだと思うので書くことにしました。教える側にいる人も、
学ぶ側にいる人も、もう一度その意味を考えることによってまた何か違った発想が
生まれることを願って。
まず初めに、教えることとは何かと考えるとき、一言で言えばそれは、'学ぶ側の
人が出来ないことを出来るようにすること'、もっと簡単に言うなら、'学ぶ側を上
達させること'です。決して自分の知識をひけらかしたり、学ぶ側の悪いところを探し
たりすることではありません。またどんなに丁寧な指導であっても相手が上達しな
ければ、それは教えるということを果たしていないし、またどんなに酷い指導であっ
ても、学ぶ側が伸びるのであれば、それは'教える'を果たしています。以前ロンド
ンでカレン・ハーディーのレッスン中、ウォークの際に必要以上にアームが動いて
しまう僕を見たカレンが、画びょうを両手に摘んで僕の両肘のすぐ横に構えたこと
がありました。つまりアームが動くとチクリとくるわけです。カレンのこの行動は忘
れられませんが、それ以上に印象的だったのは彼女の言葉です。「ひどい先生だ
と思うかもしれないけど、私は手段を択ばない、あなたが上手くなりさえすれば
いいの。」その言葉の裏には、生徒を上達させることに対する強い情熱を感じ
ました。おかげさまでそれを機に僕の癖はなくなりました。まぁ何度か痛い思い
はしましたが。教える者にとって一番大切なのは、学ぶ側を上達させようという
情熱です。学ぶ側は、その情熱を感じ取ればどんな教え方であってもついて来る
ものです。また学ぶ側に必要なのは、'出来るようになりたい'という憧れです。
この憧れる力が自分自身を成長させるし、また、教える側の情熱を引き出すの
です。
ここからは少し具体的に僕の教え方を紹介します。
まず僕は、大きく分けて二つの指導法を教えるときの軸にしています。それは
言葉で表すなら、'限定的指導法'と'拡張的指導法'とでも言いましょうか。
限定的指導法とは、一つの動きに対して色々な注意事項を加えることにとって
動き(または体)に制限をつける方法です。ルンバウォークを例にするなら、
立ち方、フレームの位置、ボディの使い方、足の出し方、体重移動などに関して
注意事項を教えて、学ぶ側のやるべきこと、やっていいことを限定します。
限定する、制限すると言うと、何だか自由を奪われるような響きがあるかも知れ
ませんが、それはまったく逆で、もちろん最初のうちは頭がパニックして、体も
硬くなりますが、くり返し練習するうちに脳からの指令がスムーズに体に伝達され
、体のそれぞれの部分が総合的に働き合うようになると、途端に体は自由になり
ます。それは例えるなら、自転車に初めて乗れたときの感覚に似ています。いくつ
かの条件が揃ったとき、自転車はすぅーっと安定して動きだすものですから。
またこのダンスは男女のコネクションを利用することでよりダイナミックに、スピー
ディーに踊ることが可能になるわけですが、このコネクションを見つけさせるため
にも限定的方法が有効です。教えているカップルが上手くコネクションを作れ
ないときは、それぞれの体のごく小さな部分を指先で触れて、その一点に集中
して相手を感じるように教えます。それなりのレベルに達しているカップルであれ
ば、これで大抵はコネクションを見つけられるようになります。つまり動かす部分
をごく小さく制限することで、パートナーを最大限に感じられるのです。
この限定的指導法は、日本古来の武術や舞踊にある'型'の練習に似ています。
型というものは誰がやっても同じになるようにすべて決まっています。限定されて
いるのです。僕も空手を習っていましたが、最初はさまにならない型もくり返す
ことで、腰がきまり上下のバランス、呼吸などが整うと流れのある動きになります。
型というもが持つ性質で一つ皆さんに知っていて頂きたいのは、'昔も、今も、
この先も変わらない'ということです。不変的なのです。僕が限定的方法でダンス
を教えるときは、十年後でも同じことを言える自信があるかというのが、何かに
ついて限定、制限、断定する際の基準になっています。教えることは大きな責任
を伴う行為です。真面目で素直な生徒ほど教師の言うこと信用します。そういう
生徒を惑わせないということも教えるうえでとても大切です。ダンスの技術は時代
とともに発展していくものですが、変わらないもの、変わってはいけないものを
伝えていくことは教える側の使命だと思います。
ここからは拡張的指導法についてです。人は誰でも癖というものを持っています。
そしてそれは大抵ネガティブなものとして考えられがちです。しかしその癖を自分
の武器にすることができると、周りの人は、「あの人は自分のスタイルを持って
いる。」なんて言って、敬います。また、例えば野球のピッチャーが状況によって
いくつかの球種を使い分けるように、多くの選択肢を持っている、引き出しが多い
ということはその人にとって有利なことです。このように、学ぶ側の人に合った
踊り方を探したり、踊る目的や状況に応じて何通りかの踊り方を教えて学ぶ側に
択ばせるというのが僕の言う拡張的指導法です。またダンスには、'表現する'と
いう要素があります。もちろん表現することを技術として学ぶことは必要ですが、
音楽に対するアプローチ、内面から来る感情表現、ダンスに対する好みなどは、
その人自身の持つ感性と切り離すことはできません。こういう部分にまで教える
側が自分の感性、好み、考えを押し付けてしまうと、学ぶ側の個性を消してしまっ
たり、踊る喜び、表現する楽しみを奪いかねません。なんでも自由にやらせれば
いいというわけではありませんが、学ぶ側の人が持っているものを自分が吸収する
くらいの柔軟な頭を、教える側が持っていてもいいのではないでしょうか。生徒
だって自分の考えが先生に受け入れられたら嬉しいし、やる気も出るというもの
です。これまでに説明した二つの指導法は誰もがやっている教え方ではありますが、
二つの境界線をどこで引くかの判断を間違えないことが教える側には重要です。
次の話に移ります。僕は教えるとき、まずは言葉で教えます。例えば立ち方を
教える場合は、'骨盤を少し前に入れて、お腹を引いて、肋骨を閉じて、胸を
開いて、肩と首筋を後ろに'と言葉で説明してやらせてみます。つぎに自分が実際
にやってみせて、体に触らせます。服の上からでは解らない微妙な体のポジション、
動きを教えるためです。そこでもう一度生徒にやらせてみて、最終的に良くない
ところを僕が手で触れて直します。初めから手で直さないのは、言葉で情報を与え
て、それを頼りに自分の体と会話するように正しい立ち方を学んでいるほうが、
はるかに意識が繊細に働いているし、後からでも再現しやすいからです。
また説明するときにはなるべく、'ここがこう'とか'そこでこれする'といった
'こそあど言葉'は使わず、体の各部分の名称、動きに関しても具体的に、例を
出したりして説明します。このほうが教える側と学ぶ側の間に生じる思い違いを
少なくできるからです。教えることは学ぶことの早道です。教えるために自分が
学んだことを言葉で整理することでより深く理解されます。そういう意味でも
教える技術をいつでも自分の言葉で説明できるように準備しておく必要があると
思います。
さて、レッスンというと'練習するための課題や材料を得る時間'と考えられ
がちです。それは間違いではありません。しかし、課題や材料を得ても練習を
しなければ当然上達しないし、また、頭では理解したと思っていても体がすぐに
ついてくるわけではありません。実際何かを教えられて、「はい解りました、
練習しておきます」と言って、次に進みたがる人ほど上達しないものです。僕は
カップルを教えている時などは、「じゃぁ今のところ3分練習して」と言って、
その場から席を外します。席を外すのは、緊張させないで練習させるためです。
シングルの生徒さんを教えている時も、教えたことが一度出来ても、すぐに
先に進まず何度か練習させるようにしています。練習させること自体もレッスン
のうちだということを教える側も学ぶ側も知っているべきです。'私の先生は
いつも同じことを繰り返しさせてなかなか先に進まない'なんて思っている
方がいるかもしれませんが、次々新しいことを教えるより、生徒が出来ないこと
を根気強く教え練習させるほうが教える側には何倍も大変なんですよ。習った
ことはそのレッスンの間に出来るようにするくらいの意気込みも大切です。
教えることの最終目標、それは学ぶ側が自分で自分を成長させることができる
ようにすること、自立させることです。学生時代の嫌いな数学の時間を思い
出してください。先生は公式を教え、練習問題をやらせ答えを出す方法を教え
ます。それは実際のテストや受験において自分で問題を解決できることを
目標としているのです。解答ばかり聞こうとする生徒は何も学んでいないに
等しいです。僕は効率が悪いということがとても嫌いです。自分で解決できる
問題なのに、それを考えもせずにレッスンで先生に答えを聞くというのは、
はっきり言って時間と金の無駄です。答え合わせは必要ですけどね。学ぶ側に
問題を自分で解決する力をつけさせるためには、行き当たりばったりのレッスン
ではだめです。少なくとも前回のレッスンで教えた内容ぐらいは教える側も
覚えておく必要がありますし、ある程度の長さの期間ごとに、'この生徒には
ここまで教えた'というのを把握しておきたいものです。また教えた内容を、
'これは前にやったあの使い方と同じだよ'というふうに、共通しているもの
同士をくくりながら教えると、学ぶ側は新しい問題に面しても、その中から
解決のヒントを探すようになるものです。自分で考える力をつけさせることが
教えることの目標であること忘れないようにしたいです。
僕が教えるうえで頭に置いていることをいくつか挙げながらお話しました。
もちろんここに書ききれないほど教える要素はあるし、僕とは違う考えをお持ち
の方も大勢いらっしゃることでしょう。もしこれを読んだ人で教える立場に
いる人がいるなら、僕の考えを参考にして頂いても、批判して頂いても結構
ですから、自分の教え方というのを改めて整理されてみたらいかがでしょうか。
また、学ぶ側の方も、学ぶ目的や上手な学び方なんかを考えて頂けたら、
長時間パソコンに向かった僕のがんばりも報われます。
僕はダンスを教えることで生計を立てていますが、教える目的はお金を稼ぐ
ことではなく、生徒を上達させることです。学ぶ側にとって'できるように
なる'、'伸びている'という充実感を感じられることは大きな喜びですし、
その一端を担うことができたのなら、それは教える側にとっても大きな喜び
です。「教えることが好き」と僕は日ごろ口にしますが、本当に好きなのは
人を喜ばせることで、ダンスを教えるのはその手段なのだと最近思うように
なりました。こういう僕の言葉を聞いて、「そんなきれいごと言って」と思う
教師がいるなら、ぶっちゃけそういう人は教師、先生という名の付く仕事には
就かないほうがいいです。
僕は教えることに自信があります。こんなことを言うと高慢な奴だと思われ
そうですが、でも考えてみてください、自信のない教師に習いたいと思い
ますか?今回の話を書いて、僕自身、決意を新たにすることがありました。
それは自分自身が学び続けることです。僕に学ぶ人よりも速いスピードで
学び続けようと思います。「あの人からはもう学ぶものが無い」なんて言われ
たくありませんから。教えるには知識と技術が必要です。でもそれ以上に
必要なのは'上達させたい'という情熱です。学ぶ側に必要なのも'上手く
なりたい'という情熱です。ダンスに対する教える側の情熱と学ぶ側の情熱
がぶつかり合ったとき、教えることと学ぶことはその実を結び、そしてそこ
には、他では味わえないような幸福感が生まれるものと信じています。
YOSHIAKI